指揮者・ピアニストのダニエル・バレンボイムによると、音楽には二つの可能性があるという。一つ目は現実から逃避させる手段になるということ。そして二つ目は、現実をより深く理解するための助けになるということ。どちらかといえば抽象的な芸術である音楽を通して、現実をより理解するとはどういうことだろうか。
昨年12月8日、修復工事中のベルリン国立歌劇場の裏手に「バレンボイム・サイード・アカデミー」がオープンした。これは、70代も半ばに差し掛かったバレンボイムが、近年とりわけ力を注いできたプロジェクトである。その出発点は1999年にユダヤ系のバレンボイムとその友人、パレスチナ系文学者のエドワード・サイードが一つのオーケストラをワイマールにて設立したことにさかのぼる。メンバーは政治的対立の続くイスラエル、パレスチナ、シリア、レバノンなど中東地域出身の音楽家。ゲーテの『西東詩集』に因んで、ウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団と名付けられた。バレンボイムによると、彼らはベートーヴェンやワーグナー、チャイコフスキー等の作品を演奏することを通して「ユートピアの実験」について語ったという。音楽には境界がない一方で、全員が共同で作業をすることを求められる。一緒に演奏することを通して、自由や平等、互いの存在を認め合うという共通のビジョンを経験する機会を得たというのである。
サイードは2003年に死去したが、このオーケストラの理念を体現した音楽アカデミーがベルリンに生まれることになった。中東のさまざまな国や地域出身者から成る37人のアカデミーの第一期生は、高度な器楽の技能を学ぶと共に、クラシック音楽の中でもとりわけ対話の精神が求められる室内楽を重点的に学ぶ。そしてこのアカデミーのもう一つの重要な根幹は、哲学、文学、歴史などの人文教育。これは「単に優れた音楽家であるのみならず、社会の出来事に対して好奇心を持ち、思慮深い人間を育てたい」という創設者の理念を体現したものだ。
この夜は、招待客へのサプライズとして、隣接した新ホール(ピエール・ブーレーズ・ザール)でバレンボイムの指揮によりアカデミー生が演奏を披露してくれた。目の前で湧き上がるハイドンとモーツァルトは、若き音楽家たちのまばゆいばかりの表情と共に、忘れがたい印象を残してくれた。世界が揺れ動いた年の瀬に見えた希望の灯火か……。
昨年12月に行われた
バレンボイム・サイード・アカデミーのオープニングから
冒頭のバレンボイムの言葉に戻ると、彼はこう語る。「音楽は、世界の苦しみを忘れさせるのみならず、永続的で生き生きとした記憶として理解される。音楽のハーモニーを感じるとき、世界の不和や不公平、不自由をより強い色合いの中で経験することになるのだ」
バレンボイム・サイード・アカデミーのエントランスホール
バレンボイム・サイード・アカデミーは音楽学生だけのものではない。今年3月にオープンする新ホールでは、連日のように室内楽やオーケストラの公演が行われる。ベルリンに誕生する音楽を通した新しい対話の場。聴衆の一人として、彼らと共に考え、学んでいきたいと思った。
バレンボイム・サイード・アカデミー
Barenboim-Said Akademie
ベルリン・ミッテに作られた音楽アカデミー。かつての国立歌劇場の収蔵庫を改造して作られ、リハーサル室やカフェ、後述のホールなどが収容されている。そのビジョンに賛同したドイツ連邦政府の支援も受けた。このアカデミー設立までの経緯を紹介した展覧会「ユートピアの響き」が、7月16日まで下記のオープニング時間に見学可能。
オープン:月〜金11:00〜18:00
住所:Französische Str. 33d, 10117 Berlin
電話番号:030-209671700
URL:https://barenboimsaid.de
ピエール・ブーレーズ・ザール
Pierre Boulez Saal
作曲家・指揮者のピエール・ブーレーズ(1925〜2016) に因んで名付けられたホール。建築家のフランク・ゲーリーが楕円の形をした622席のホールを設計し、数多くの著名なホールを手がけてきた豊田泰久が音響設計を担当した。2017年3月4日にバレンボイムらが出演する公演でその幕を開ける予定だ。
住所:Französische Str. 33d, 10117 Berlin
電話番号:030-47997411(チケットホットライン)
URL:https://boulezsaal.de