ジャパンダイジェスト

ドイツゼクト物語 - シャンパンとの接点を探して 岩本順子

16. ケスラー・ゼクト10 ドイツでの再出発

Deutsche Sekt-Geschichte

ヴーヴ・クリコ=ポンサルダン社が、ドイツでテキスタイル工場の立ち上げに着手したのは1823年。しかし、多額の投資は同社にとって年々重い負担となっていた。ドイツにおけるビジネスの軌道修正は、その後、思いがけない形で起こった。

ドイツ支社の仕事を一手に引き受けていたケスラーは、1825年の始め、妻と娘に先立たれ、同年9月には父親も他界した。同じ頃、彼自身の健康に異変が起こる。脊髄病の兆候だった。精神的にも肉体的にも追い詰められたケスラーに、医者は故国ドイツでの温泉治療をすすめた。ケスラーはエスリンゲン近郊の温泉町、バード・ボルで治療に専念した。

エスリンゲン中心街の旧市庁舎(筆者撮影)
エスリンゲン中心街の旧市庁舎(筆者撮影)

療養中、ケスラーはアウグステ・フォン・フェルナーゲルという女性と知り合い、やがて再婚を考えるようになる。アウグステの父親はヴュルテンベルク王国の長官であり、王室担当相でもあった。

1826年の年初、妻の一周忌のミサに参加するため、ケスラーは一旦ランスに戻った。その時、彼はマダム・クリコに、故国で再婚することを告げた。彼は約20年にわたるフランス生活に終止符を打ち、帰国を決意したのだった。

ケスラーはマダムに、苦労して立ち上げたエスリンゲンの工場を、今後は自己資金で運営したいと要請した。VCP社のトップである2人は、マダムがフランスの本社と銀行部門、およびランスに所有する不動産を、ケスラーがドイツ支社とノイホーフ醸造所を継ぐという契約を交わし、正式に袂を分かつことになった。これを受けて、VCP社はケスラーの義弟クリスチャン=ルードヴィヒ・ヒュブラーや、兄のハインリヒが代理としてサポートしていたエスリンゲンのテキスタイル工場とノイホーフ醸造所への出資を止めた。

1826年5月、ドイツに帰国したケスラーは、晴れてエスリンゲンの工場のオーナー経営者となった。経営センスに長けた彼は、まもなく同社を株式会社に組織変更した。工場ではフランスの先端技術を導入していたが、英国からも最新のジェニー紡績機を購入、当時の最高級品だったメリノ・ウール製品を生産し、大好評を得た。ケスラーの工場は、後に「エスリンガー・ウール」で名を馳せる、メルケル&キーンリン社の基盤をつくった。

当時のエスリンゲンは、時代の最先端をいく街へと変化を遂げつつあった。エスリンゲンに行けば、最新のテキスタイル製品、金製品や光学機器、焼き菓子やワインなど、あらゆるものが手に入った。テキスタイル工場が軌道に乗り始めると、ケスラーはシャンパーニュでの知見を活かし、スパークリングワインを生産したいと思うようになった。

 
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岩本順子(いわもとじゅんこ) 翻訳者、ライター。ハンブルク在住。ドイツとブラジルを往復しながら、主に両国の食生活、ワイン造り、生活習慣などを取材中。著書に「おいしいワインが出来た!」(講談社文庫)、「ドイツワイン、偉大なる造り手たちの肖像」(新宿書房)他。www.junkoiwamoto.com
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