15. ケスラー・ゼクト9 悲しみの1825年
1825年はケスラーにとって深い悲しみの年となった。ランスに移住して18年、結婚して6年、ヴーヴ・クリコ=ポンサルダン社の銀行部門のトップに就任して3年。地元の経済界に着実に地位を築きつつあった矢先に、娘と妻を相次いで亡くしたのである。
ケスラーの肖像画は、彼が愛する家族を失った1825年に描かれたものだ。上質の生地で仕立てられたジャケット、おどけたナポレオン・ポーズ。机の上にはインク壺と書きかけの文書が置かれ、詩人のポートレートのようだ。 ケスラーは穏やかな表情をしているが、どことなく孤独感が漂う。手にしたミニチュア画の女性はクレメンスだろう。最愛の妻は彼のそばにはいない。
肖像画のオリジナルは、VCP社に飾られているという
ケスラーの人生は、順風満帆であるかに見えた。ケスラーが率いるヴーヴ・クリコ=ポンサルダン社(VCP社)の銀行部門は、主にランス近郊に拠点を置くテキスタイル工場などに融資していたが、ケスラーは産業で遅れをとっているドイツにこそビジネスチャンスがあると考えた。マダム・クリコも同意見だった。間もなくVCP社は、ケスラーの故郷であるヴュルテンベルク地方のエスリンゲンに土地を購入し、テキスタイル工場の建設に着手した。フランスからドイツへ、何人もの技術者が送り込まれ、最先端の設備が整う工場ができつつあった。
VCP社のシャンパン部門においても、ドイツ進出の計画があった。マダム・クリコとケスラーは、「ドイツでもシャンパンを生産することは可能だ」と確信していたのである。VCP社はすでに1820年の段階で、ハイルブロン近郊エードハイムのノイホーフ醸造所のブドウ畑を購入していた。畑の所有者は、VCP社きっての営業マン、ルードヴィヒ・ボーネの兄だった。ボーネは翌1821年に亡くなったが、ヘッセン州出身のドイツ人、マテウス=エドゥアルド・ヴェルラーが入れ替わるように入社した。後にVCP社を継ぎ、ランス市長も務めた、シャンパーニュで最も成功したドイツ人の1人である。ヴェルラーは多忙なケスラーに代わってシャンパン事業を引き継いだ。
やがてクレメンスが妊娠した。ケスラーは可能な限り妻のそばにいたかったのだが、エスリンゲンのテキスタイル工場立ち上げが大詰めを迎え、ドイツに出張することが多くなった。ケスラー自身が、単身赴任もやむをえないと考え始めたところで、娘と妻を失ったのである。娘は死産、クレメンスはその10日後に息を引き取った。
ケスラーは妻の死によってランスでの拠り所を失った。一方、マダム・クリコは、1818年に待望の初孫が生まれてからは、娘一家と時間を共有することが多くなっていた。VCP社の2人のトップは、少しずつ疎遠になり始めていた。