17. ケスラー・ゼクト11 ドイツ初の「シャンパン」を目指して
ドイツ初の「シャンパン」の生産を夢見て、ケスラーは兄ハインリッヒをスタッフに迎え、基幹となるテキスタイル工場の基盤を家族で固めた。王国長官だった義父、クリスチャン・ルードヴィヒ・フォン・フェルナーゲルは、ケスラーの人脈を広げてくれた。
ケスラーが義父を通じて得た知己に、出版人で政治家のヨハン=フリードリヒ・コッタがいる。コッタは「ウィーン会議」派遣団の1人で、南ドイツ関税協定に貢献した人物。彼は、ケスラーにとって、最もエキサイティングな話し相手だったという。義父の取り計らいで、ヴュルテンベルク王室への訪問も叶った。当時の国王は、農学とブドウ栽培、ワイン醸造学の近代化に尽力し、1818年にホーエンハイムに農業大学を設立した人物だった。1825年には彼の主導で、ワイン品質向上協会が設立され、その3年後にはワイン醸造協会が発足した。
ケスラーが経営するテキスタイル工場は、時代のニーズに合い、軌道に乗った。やがてケスラーは、テキスタイル部門を工場長コンラッド・ヴォルフに託し、「シャンパン工場」の立ち上げに専念し始めた。テキスタイル工場はその後、工場に加わったヨハネス・メルケルとルードヴィヒ・キーンリンの功績もあって、メルケル&キーンリン社として1970年代まで存続した。
エスリンゲンは新興産業都市ではあったが、ケスラーの故郷であるハイルブロン同様、中世から修道僧たちがワイン造りを行ってきた伝統があり、1200ヘクタールのブドウ畑があった。ワインの量を測るのに、「エスリンガー・アイマー(エスリンゲンのバケツ)」という単位も使われていた。
1826年7月1日、ケスラーはビジネス・パートナーのハインリヒ・アウグスト・ゲオルギとともに、ドイツ初のスパークリングワイン工場「G.C.Kessler & Companie」を立ち上げた。ケスラーは事前に綿密なプランを練っていた。ヴーヴ・クリコ・ポンサルダン社時代に購入していたノイホーフ醸造所で、ヴュルテンベルク産のブドウを使用し、スパークリングワインを試作していたのである。
ゲオルギはヴュルテンベルク王国エスリング裁判所の法務長官で、エスリンゲンにブドウ畑を所有し、ワインに詳しい人物だった。彼は立ち上げの資金を調達しただけでなく、醸造所の建物を提供し、法務におけるアドバイザーでもあった。歴史家は、ゲオルギのサポートなしに、ケスラーは醸造所を興すことは不可能だっただろうと述べている。ゲオルギが「われわれ2人は契約書を必要としなかった」と記しているように、2人は強い信頼関係で結ばれていた。
ケスラーが1830年代に入手したエスリンゲンのセラー。見学可能だ