19. ケスラー・ゼクト13 ケスラーのゼクト、世界へ
G.C.ケスラー&カンパニーのゼクトの品質の良さとおいしさは、ファースト・ヴィンテージから、ワイン品質改善協会が絶賛するほどのレベルだったようだ。ケスラーのゼクトは、ヴーヴ・クリコのシャンパンに勝るとも劣らぬ商品だったのである。
ケスラーは機会があるたびに、20年にわたってランスのヴーヴ・クリコ社で働き、共同経営者でもあったこと、ケスラー・ゼクトの製法はヴーヴ・クリコ社と同一であることなどを熱心に語っていたという。エティケットにも、ヴーヴ・クリコ・ポンサルダンの前パートナーと表記した。その甲斐もあって、彼のゼクトは徐々に広く知れ渡るようになった。
当初、ケスラー・ゼクトの8割は、地元のヴュルテンベルクで消費されていたという。上得意客はハインリヒ・フォン・ヴュルテンベルク公爵だった。彼はケスラー・ゼクトを愛飲し、ゼクトについてケスラーと頻繁に文書で意見交換をしていたほか、営業に関してもアドバイスを与えていた。当時、フランス産のシャンパンは、ドイツ産シャンパンの2倍の価格だったそうで、公爵は誰に対しても、安価で高品質の「ケスラー・シャンパン」をすすめていたそうだ。
当時はまだ、ゼクトという言葉は一般的ではなく、ドイツ産も商品名は「シャンパン」だった。「シャンパン」という言葉が、シャンパーニュ地域以外で使用禁止となるのは、1919年に入ってからである。
しかし当時も「シャンパン」と聞くと、誰もが当然のようにフランス産を連想した。自らのゼクトを、フランスの模倣品と見なされたくなかったケスラーは、フランス産に遜色ないハイレベルのドイツ産「シャンパン」をどう宣伝すればいいのか、頭を悩ませた。彼は「ドイツの」「地元の」「父なる祖国の」といった言葉を駆使して宣伝に努めたという。
1833年にドイツで関税同盟が発足すると、ケスラーは生産量の半分以上を、ヴュルテンベルク王国外で積極的に販売するようになった。彼のゼクトは、とりわけバイエルン、ザクセン、テューリンゲン、プロイセンの王室で愛飲されたという。ケスラーは、ヴーヴ・クリコ社時代に築いたネットワークもフルに活用して、外国にも販路を開拓した。輸出先はオランダをはじめ、 オーストリア、ポーランド、北欧、ロシア、英国、米国と広域に渡った。
ケスラーは1835年に、のちにG.C. ケスラー& カンパニーを継ぐことになるカール・ヴァイス・シェノー(1809〜1889)を、もう1人の共同経営者として迎えた。2人は「ケスラー」の名を世界的に有名なブランドに育てあげた。創業10年目を迎えた時、ケスラー・ゼクトの販売本数の総計は50万本に達していた。
ケスラー・ゼクト社 セラーの階段