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ドイツゼクト物語 - シャンパンとの接点を探して 岩本順子

3. フランス革命後、フランス色に染まるドイツ

Deutsche Sekt-Geschichte

ドイツ人がフランスに渡ってシャンパン業界で活躍し、ドイツにゼクト醸造所が開業しはじめる19世紀初頭はどんな時代だったのだろう。フランス革命を経て、ナポレオン1世に翻弄された時代のドイツ人の意識に少しだけ近づいてみた。

シャンパンが登場したのはルイ15 世(在位1715-74)の時代だ。フランス王国が1728年にワインのボトル輸送を許可すると、リュイナール、モエ・エ・シエ(後のモエ・エ・シャンドン)、テタンジェ、ランソン、ヴーヴ・クリコなどのメゾンが次々創業し、シャンパンの流通に拍車がかかった。ルイ16世(在位1774-92)の時代には、ルイ・ロデレール、エドシックが創業、総生産量は100万本に達し、特権階級の人気をさらった。業界でのドイツ人の活躍は、フランス革命後さらに目立ちはじめる。

フランスは10世紀末からパリを首都とする王国だったが、当時のドイツは中心を欠き、多くの領邦国家が分立していた。それら国家郡連合として存在した神聖ローマ帝国は、人々の関心の外にあった。

ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世・在位1804-15)が革命後の混乱を収拾し、軍事独裁政権を統率してゆく過程で、ドイツはどんどんフランスに取り込まれていった。フランスはまず、1801年にライン左岸全域を併合し、ライン川という自然国境を実現。左岸は急速にフランス化が進み、フランス語が公用語化された。1803年の帝国代表者会議では、領邦国家秩序の改変が決まった。解放された諸地域はバイエルン、ヴュルテンベルク、バーデンなどの諸領邦に吸収合併され、300万人以上の住民が特に摩擦もなく新しい領主を受け入れたという。1806年、ナポレオン1世はドイツの諸侯国を「ライン同盟」の名のもとに統合し、神聖ローマ帝国から離脱した。その野望は留まるところを知らず、1809 年には全ドイツがナポレオン1世の支配下となった。

「一般市民の生活において、支配者の変更はほとんど意味をもたなかったはずだ」と歴史家は言う。ナポレオン時代、ドイツという概念は一旦「無」に帰した。当時のドイツ人には、フランスは眩しい先進国に見えただろう。特に南部のワイン産地の人々にとって、シャンパン産業は魅力的な先端技術だったに違いない。

1813年のライプツィヒの戦いでナポレオン1世が敗退するまで、ドイツは地域により長い所で約15年もフランス色に染まった。特に完全にフランス化されたライン左岸の人々は、その後も長くフランス人的メンタリティーを持ち続けたことだろう。そのライン左岸には、ラインヘッセン、ファルツ、モーゼルなどドイツの主要ワイン産地が含まれている。

(参考資料/林健太郎編「ドイツ史」山川出版社、「世界の歴史22」中公文庫)

シャルル・エドシックのクレイエールドイツ系メゾン、シャルル・エドシックのクレイエール(ガロ・ローマ時代の採石場跡)を利用したセラー

 
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岩本順子(いわもとじゅんこ) 翻訳者、ライター。ハンブルク在住。ドイツとブラジルを往復しながら、主に両国の食生活、ワイン造り、生活習慣などを取材中。著書に「おいしいワインが出来た!」(講談社文庫)、「ドイツワイン、偉大なる造り手たちの肖像」(新宿書房)他。www.junkoiwamoto.com
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