ジャパンダイジェスト

ドイツゼクト物語 - シャンパンとの接点を探して 岩本順子

9. ケスラー・ゼクト3 ランスでの新たなスタート

Deutsche Sekt-Geschichte

1807年の夏、20歳のケスラーはマインツから郵便馬車で10日かけてランスに辿り着いた。ランスは繊維産業の中心地だったが、革命以来、遠征という名の断続的な戦争状態が続き、輸出業は不安定だった。シャンパン産業が興隆したのはそのような時代だった。

ランス出身のクリコ家には、17世紀からオルガン造りで名を馳せた家系もあるが、ケスラーが就職したのは、今日に至るまで存続するシャンパン・メゾンだ。創業は1772年。創業者はフィリップ・クリコ=ミュイロン。当初は銀行業、繊維商を営み、副業として小さな醸造所を運営していた。彼の息子フランソワ=マリー・クリコは、1798年にバーブ=ニコル・ポンサルダンと結婚するが、1805年に病死する。27歳で未亡人(ヴーヴ)となったマダム・クリコが夫の会社を継いだ。

当時はまだ、女性が経営者になるなど非常にめずらしいことだった。しかし、マダム・クリコは約6年間の結婚生活の間、出張で留守にすることが多かった夫からの手紙に従って、会社と家を守っていた。彼女は会社の動向を充分に把握していたのである。とはいえ、女1人の経営には困難が多い。しかも販売業務には出張がつきものだ。当時の出張は馬車で数カ月に及んだ。彼女にはビジネスパートナーが必要だった。

1806年に共同経営者として迎えられたのが、ジェローム=アレクサンドル・フォルノーだった。彼はテキスタイルとワインを商う、フォルノー・ペル&フィス社の経営者だった。フォルノーとの契約は4年、社名はヴーヴ・クリコ・フォルノー商会と変わった。フォルノーは販売・輸出業務、セラー業務の監督を担当し、マダム・クリコは事務、経理、人事を担当した。

当時、フランスの繊維産業は英国製品の台頭によって危機に瀕しており、フランソワは、繊維輸出業からシャンパン生産業へと徐々にシフトし始めていた。しかし、フランソワの死後、クリコ社の業績は悪化する一方だった。その原因はナポレオン1世だった。シャンパンの輸出は常に彼の戦況に左右された。

ケスラーがクリコ社に就職したのは、ナポレオン1世が「大陸封鎖令」を発令した直後のことだった。1806年にベルリンで発令されたこの勅令は、欧州大陸のナポレオン征服地と産業革命中の英国との通商を禁じる経済封鎖令だった。英国も対抗措置としてナポレオン制圧下の欧州とフランス植民地を封鎖した。フランスが誇るシャンパンは、英国に輸出できなくなった。ケスラーは入社早々、このような危機的状況に直面し、英国に代わる販路を開拓しなければならなかった。

ランスのシンポル
ランスのシンポル、大聖堂(著者撮影)

 
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岩本順子(いわもとじゅんこ) 翻訳者、ライター。ハンブルク在住。ドイツとブラジルを往復しながら、主に両国の食生活、ワイン造り、生活習慣などを取材中。著書に「おいしいワインが出来た!」(講談社文庫)、「ドイツワイン、偉大なる造り手たちの肖像」(新宿書房)他。www.junkoiwamoto.com
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