終わりなき自分探しの旅
イラストレーター
見る人に訴え掛けるような深みと
物語性のある絵を描きたい
アナ・フアン
1961年スペイン・バレンシア生まれ。当地の美術専門学校(後に大学となる)を卒業後、マドリッドへ引っ越し、フリーの商業イラストレーターとして独立。90年代前半はパリを拠点に活動。95年からはマドリッドとハンブルクを往復しつつ、新聞、雑誌、書籍、ポスター用のイラストレーションのほか、絵本のイラスト制作、独自の絵本作りにも挑戦している。
アナ・フアンは、自分が一番好きなことを、回り道することなく着実にやり通してきたかのように見受けられる。だが、話を聞くとその内実はクライアントの要望に忠実に働きながら、自分のスタイルを模索するという地道なプロセスの繰り返しだった。しかし、商業イラストレーションという制約が、自らのスタイルの確立のためのバネになっていたのは確かだ。
母が見出した絵の才能
アナの父親はパティシエ、母親は看護婦。絵を描くことが大好きだった姉の影響で、その楽しさを知った。3歳で初めて鉛筆を握ってから現在に至るまで、それは変わっていない。
アナの絵の才能を発掘したのは母親だった。母の勧めで12歳から絵画教室に通い始め、木炭画の楽しさに魅せられた。16歳から、2年にわたって高校と美術専門学校(現在のLlicenciada en Belles Arts per la Universitat Politècnica de València)を掛け持ちし、高校卒業後も引き続き美術学校に通った。当時も木炭画が一番好きだったという。
当時、美術学校の卒業生は当然のごとく教職に就いていた。同級生も9割が美術教師になった。しかし彼女は、教師にだけはなりたくなかった。人に教えるのが苦手なのだ。「嫌いなことをしても、幸せになれないような気がしたの。今でもワークショップの依頼が来るけれど、全部断っている。私の希望は作画の技術を少しでも高めることだから」。
クライアントに鍛えられた模索時代
ハンブルクのアトリエにて
アナは卒業と同時に商業イラストで自立したいと思い、マドリッドに拠点を移した。自身の商品見本を小脇に抱え、雑誌社や新聞社を集中的に訪問。仕事をもらえないかと尋ね回るうちに、少しずつイラスト制作の依頼が舞い込むようになった。
1980年代半ばの作品には、彼女の個性はまだぼんやりとしか表れておらず、当時業界で流行していたスタイルが見受けられる。「マドリッドに来たばかりの頃は、私の模索時代。早く自分のスタイルを確立したくて、あらゆることに挑戦していた」。彼女が模索するスタイルとは、「見る人に何かを訴え掛けるような、物語性のある絵を描くこと」だった。
アナは、ジオットからラファエルに至るイタリア絵画、そしてブリューゲルなどフランドル絵画に最も心を打たれるという。「彼ら巨匠が大成した独自のスタイルは、一朝一夕に出来上がるものではなく、その道のりはとても長い」。
アトリエの画家ではなく、あえて商業イラストの世界に身を置くことで、彼女のスタイルは鍛えられていった。「個人的な絵を描くだけでは新しいことは学べない。商業イラストの世界にいれば、常に新しい課題に挑戦することになり、そこから確実に何かを学ぶことができる」。クライアントとの共同作業では、何度も描き直しがある。「クライアントがなぜ変更しろと言うのか、その理由を考えながら直していくうちに、思いがけず進歩をしていることがあるの」。
日本の編集者から学んだ物語作り
1990年代初頭、パリ滞在中にフランスの出版社を通して、日本の印刷会社で研修中のフランス人と知り合った。彼の仲介で92年にトレヴィルという出版社から作品集を出し、ささやかな日本デビューを飾った。この頃のアナの作品は、「見る人に訴え掛けるような深みと物語性」を持ち始めている。そのフランス人が後に、日本の漫画雑誌の編集者となり、アナに別の仕事の話を持ち込んだ。コミック誌「モーニング」掲載用の作品の製作だった。彼女を担当した日本人のベテラン編集者は、彼女の絵の1枚1枚に物語性を見出していた。「その編集者は私の絵を見て、『この前後を描いて8ページにしてみませんか?』と勧めてくれたの。それまで私は1枚の絵の中に物語を込めようとしていたから、彼の提案は目から鱗だった」。
「モーニング」との共同作業は約4年続いた。この間アナは拠点をマドリッドに戻し、1995年以降はパートナーのドイツ人コミック作家、マッツ・マインカと共にハンブルクとマドリッドの両都市で暮らしている。
日本での雑誌掲載は編集方針の変更で叶わなかったが、作品「アマンチス(恋人たち)」は、スペインとイタリアで単行本化された。アナは、この仕事が自身のキャリアにおける大きなステップになったと言う。その後、彼女は絵本の世界に抵抗なく入って行く。
子どもの絵本から大人の絵本の世界へ
絵本イラストのデビュー作は「フリーダ」(2002年)。メキシコの女流画家フリーダ・カーロの少女時代の絵本化だ。その後、複数の子ども向け絵本のイラストを請け負いつつ、ようやく大人のための絵本の世界に到達。「スノーホワイト」「デメター」の2作(前者は「白雪姫」、後者は「ドラキュラ」序説のアダプテーション)を経て、講談社の臨時刊行漫画雑誌「MANDALA」に30ページにわたる作品を発表したのである。原作はマッツ・マインカ。歴史に造詣の深い彼が、約100年前のドイツを舞台に事実を踏まえたお伽話を書き、アナが絵にした。「MANDALA」に掲載された2作はその後イタリアで単行本化され、目下新作を準備中だ。
「大人向けの絵本の方が描いていて楽しいし、自分の画風を発展させることができる」とアナは言う。彼女が2000年以降に描き始めた大人向けの絵本には、木炭画を基調とした独自の画風が顔を出している。
2010年、彼女はスペイン文化庁の最優秀イラストレーション賞という、同国のイラストレーターに与えられる賞の中で最も名誉ある賞を受賞した。しかし、「私ったら、いまだに自分探しをしているのよ」と謙遜する。マッツとの共同作品では創作の自由を最大限に謳歌しながらも、それが到達点だとは思っていない。「こういう風に仕事をしたいと思っても、実際にはそうならない。それよりも、こうと決めつけないでどんどん変化していくのが良いと思ってここまでやって来たの。だから、それを続けるだけ」。
アナは「私は今、子どもの頃から一番好きだった木炭画に戻って来た。学校で学んだ後は忘れてしまう、あの木炭画よ」と嬉しそう。30年を掛けて、アナはようやく自分のスタイルを見付け、新たなスタート地点に辿り着いたようだ。
Ana Juan
Admiralitätstraße 74, 20459 Hamburg
www.anajuan.net