「フランクフルトは、MF長谷部誠との契約を2027年夏まで延長」というニュースを最近目にした。長谷部選手は2023年夏で現役を引退し、その後はコーチングスタッフに加わるという。この年齢までブンデスリーガ1部で活躍し続けてきたのみならず、引退後すぐチームのスタッフに招かれることに、この選手がドイツの地で築き上げてきた業績の大きさを思わずにはいられなかった。
雨の日のある光景が頭をよぎる。2011年夏、NHKの番組取材で当時ヴォルフスブルクに所属していた長谷部選手とご一緒した時のことだ。
「ベルリンの奇跡」の舞台となったゲズントブルンネン・スタジアム跡
Sバーンのゲズントブルンネン駅からほど近い場所に、かつて「プルンペ」という愛称で親しまれたサッカー競技場があった。1936年のベルリン五輪ではサッカー競技の舞台になり、当時無名だった日本は優勝候補のスウェーデンに3対2で逆転勝利を収め、それは「ベルリンの奇跡」として語り継がれるようになる……。取材当時日本代表の主将を務めていた長谷部選手に「奇跡」の起きた舞台を訪ねて、思いを語ってもらうという番組のロケだった。
スタジアムだった場所は、現在はごく平凡な集合住宅が並び、サッカー選手を主題にした彫刻作品がわずかにその跡をしのばせるばかりだが、通りを隔ててサッカーグランドがある。地元のアマチュアチーム SV Norden-Nordwestに事前に問い合わせたら、チーム関係者の中に、なんとあの日本対スウェーデンの試合を生で観戦していた男性の孫で、よくその話を聞いていたという方が見つかった。
グランドでその男性と長谷部選手の対面が実現。「後半で日本のパスサッカーが優勢になると、周りのドイツ人もいつの間にか日本を応援していた」という話をしてくれた。逆転の3点目を決めた松永行(あきら)選手は、同じ静岡県の藤枝東高校出身ということで長谷部選手はとりわけ感慨を深くしたという。
2018年12月、ヘルタ・ベルリン戦での長谷部誠選手(写真左)
翌37年、日中戦争が勃発したことで、選手の多くは戦争行きを余儀なくされる。松永行は28歳の時、ガダルカナル島で戦死した。「家族があって、大好きなサッカーがあって。そういうなかでも戦争に行かなければならなかった……。やり切れない気持ちですね。そういう先輩たちが築き上げてきたものがあってこそ、今の自分たちがあるのだと思います」と長谷部選手は真っすぐな言葉で語った。
ロケが終わってからシュパンダウ駅に着くまで、ロケバスの中で長谷部選手や番組スタッフとしばし雑談した。当時ヴォルフスブルクは下位に低迷しており、マガト監督からとりわけ厳しい練習が科されているという話も。長いサッカー人生の中では苦難の時期もあったに違いないが、フランクフルト移籍後は後方からひときわ円熟のプレーを披露するようになった。ブンデスリーガにおけるアジア人最多出場(現在353試合)は燦然(さんぜん)と輝く記録だ。
現役引退まで、ベルリンでもあと何回かプレーする機会はあるだろう。長谷部誠選手の有終の美を、できればスタジアムで見届けたいと思っている。
「ベルリンの奇跡」
1936年8月4日、ベルリン五輪のサッカー競技で、日本代表がスウェーデン代表に勝利した試合を指す表現。優勝候補の一つだったスウェーデンは前半に2点を先制したが、後半に日本が3ゴールを決めて逆転した。日本サッカー黎明(れいめい)期の歴史的な勝利として知られる。当時大学生が中心だった代表選手は第二次世界大戦で兵役に駆り出され、松永行をはじめ数人が犠牲になった。
ゲズントブルンネン・スタジアム
Stadion am Gesundbrunnen
1924年から74年までヴェディング地区に実在したサッカースタジアム。五輪スタジアムに移るまでの約40年間、ヘルタ・ベルリンのホームグラウンドだった(故に「ヘルタ・プラッツ」と呼ばれることも)。ゲズントブルンネンには鉱泉があったことから、水ポンプを意味する「Plumpe」という愛称でも知られた。下記住所にサッカー選手を題材にした記念の彫刻作品が飾られている。
住所:Behmstr. 40, 13357 Berlin