シャルロッテンブルク地区西側のルーレーベンという地名は、今日では地下鉄U2の終点として知られる。数年前、この近くに住む長年の知人が、「昔ルーレーベンに東欧から米国に渡った移民のための駅があったのよ。その遺構はもう取り壊されてしまったのだけど」という話をしてくれたことがある。私は興味を抱いたものの、取り立てて特徴のないベルリンの近郊エリアに、そんな重要な中継点があった事実にあまりピンとこなかった。
ツィタデレで開催中の「ルーレーベン移民駅」特別展より
シュパンダウ地区にある中世の要塞(ようさい)跡「ツィタデレ」で、この知られざるルーレーベン移民駅の歴史をテーマにした特別展が開催されているという。7月頭のある日、足を運んでみることにした。
大きな展示室に入ると、目の前に置かれた古いトランクやかばんが目に留まった。19世紀末、ロシア帝国領内を中心に反ユダヤ主義による暴力が激化した。例えば、ビャウィストクという街ではユダヤ人と彼らの経営する店などが無差別に襲われ、1906年には600人が殺されたという。その結果、1880年ごろから大きな移住の波が始まる。多くは東欧出身の貧しいユダヤ人。彼らは自由を求めて、ハンブルクやブレーマーハーフェンから米国へと向かった(1872~1914年までの間、実に532万人がドイツの港から旅立った)。
当時、すでに東欧とドイツ帝国領内を結ぶ鉄道網は発達しており、彼らを乗せた列車は必然的に首都ベルリンを経由した。問題は、この移動の波をどこでどう管理するか。当初、東欧からの移民たちはベルリンの頭端式の駅で降り、別の駅に移動して列車に乗り換えた。しかし、彼らが大挙して押し寄せたことで駅では混乱が起き、流行病の伝染も恐れられた。そこで1891年、ベルリン近郊のルーレーベンに移民駅が造られたのだった。ベルリン市内には列車を停車させず、ハンブルク行きとブレーマーハーフェン行きの線が分かれる手前という格好の地点で、一括して移民を受け入れたのである。
写真右の敷地にかつて移民駅があった
ここには200人を収容できる施設がいくつも構え、ユダヤ移民専用の施設もあった。米国行きを希望する人たちは、天然痘、梅毒、コレラなど、さまざまな病気の検査が行われ、必要な書類や財政状況などが厳密に調べられたという。駅というよりも、フェンスで外界から遮断された、移民の収容施設としての役割も果たしていたのだ。1892年にコレラが大流行した時は、医師の診断により健康で十分な現金を持ち、消毒を受けた者しか港行きの特別列車に乗ることを許されなかったという。入国を巡るさまざまな条件に翻弄(ほんろう)されるコロナ時代の私たちには、その切実な気持ちはいくらか身近に感じられる。
展示を見ながら、現在のポーランドやウクライナの地域から米国を目指し、新たな故郷を見出した人たちの不安や希望が、戦時下のウクライナから逃れ、別の国に避難している人たちとも重なった。この原稿は、久々に帰省した日本でまとめているが、還る場所があることのありがたさをかみしめている。
ルーレーベン移民駅
Auswandererbahnhof Ruhleben
1891〜1914年の間に、この駅を通過していった東欧出身のユダヤ人移民は100万人以上に上る。第一次世界大戦の勃発により移動の流れが止まったことで、移民駅としての使命は事実上終えた。その後さまざまな用途に使われたが、2012年に最後のバラックが解体され、当時をしのばせる遺構は姿を消した。
住所:Freiheit 40-42, 13597 Berlin
特別展「ルーレーベン移民駅経由による19世紀の避難と移住」
Raus. Raus? Raus! Flucht und Migration im 19. Jahrhundert über den Auswandererbahnhof Ruhleben
ツィタデレのツォイクハウスで開催中の特別展。東欧からこの駅を通過していったユダヤ人移民の歴史を、その背景と共に詳しく紹介する。時事的な要素をもつ内容ゆえ、展示の最後に見学者が今日の出来事についての自分の考えや願いを伝える場も設けられている。開催は2023年4月30日(日)まで。入場料は4.5ユーロ(割引2.5ユーロ)。
オープン:金~水10:00~17:00、木13:00~20:00
住所:Am Juliusturm 64, 13599 Berlin
URL:www.zitadelle-spandau.de