ジャパンダイジェスト

原爆投下から75年ハノーファーでの式典

広島市と姉妹提携しているハノーファー市で、今年も原爆の犠牲者を追悼する催しが開かれました。新型コロナウイルスの蔓延を受け、式典の参加者を限定し、感染防止対策を施した形での開催でした。

今年は第二次世界大戦の終戦から75年ということもあり、「年間を通して原爆について考える年にしよう」と、日本や平和に関係する団体や有志が、昨年から話し合いを重ねてきました。例えば、毎年原爆投下時刻である8時15分に教会の鐘を鳴らしていますが、今年は日本時間に合わせてドイツの午前1時15分に鳴らすという案も。最終的にはコロナ禍により大人数が集まることはできず、実現しませんでした。

被ばく者の体験談を朗読した8月5日の催し被ばく者の体験談を朗読した8月5日の催し

原爆投下前日の8月5日には、市郊外にある「広島祈念の杜(Hiroshima-Hain)」で原爆投下75年を振り返る平和の集いが開かれ、広島と長崎の被ばく者のメッセージが朗読されました。広島出身の米澤鐡志(てつし)さんは、10歳のとき路面電車の中で母親とともに被ばく。外傷はなかったものの重度の原爆症となり、生死の境をさまよったそうです。その後、彼の母親は亡くなってしまいましたが、米澤さんは奇跡的に回復しました。米澤さんは、「生き残った者の使命として、命ある限り、一切の戦争と侵略に反対します。核兵器の実験・保有・使用をさせない活動や、被ばくによって亡くなる人や健康被害を生じる人がいなくなるように、『原子力の平和利用』と称する原子力発電に反対し、稼働原発を停止させ、廃炉にさせる活動を続けていきます」と話し、86歳になった今も原爆反対運動を続けています。

長崎出身の前田房枝さんは、原爆投下当時9歳。爆心地から7キロほど離れた山の上の天満宮で近所の子どもたちと勉強していた時に原爆が落ち、窓ガラスが一斉に割れました。市内から被ばくした叔父が戻ったり、叔母を探しに行った父親が後に亡くなってしまうなど辛い思いをしたそうです。前田さんは「平和の恩恵に浴している若者は、『戦争は絶対に起きてはならない、核は使ってはならない』と一瞬でも考える時を持ち、平和で暮らせるように時々考えてほしいです」と語ります。

被ばく者に追悼の意を表するオナイ市長被ばく者に追悼の意を表するオナイ市長

6日朝のハノーファー市の式典では、オナイ市長が米澤さんの体験を引用して平和を訴えました。米澤さんは、来年ハノーファーを訪問する予定で、実現すればハノーファー市民にとって被ばく体験を直に聞ける貴重な機会となります。ちなみに米澤さんは、独仏のテレビ局ARTEによる原爆についてのドキュメンタリー番組「Count-Down in ein neues Zeitalter:Hiroshima」(2014)にも出演しています。

被ばく者が減りつつあるなか、原爆の恐ろしさを後世にどう伝えていくか。多くの人に生の声を聞いて欲しいです。私も米澤さんの訪独に合わせて、米澤さんの体験をドイツ語に翻訳し、多くの人に知ってもらいたいと思っています。

田口理穂(たぐち・りほ)
日本で新聞記者を経て1996年よりハノーファー在住。ジャーナリスト、法廷通訳・翻訳士。著書に『なぜドイツではエネルギーシフトが進むのか』『市民がつくった電力会社: ドイツ・シェーナウの草の根エネルギー革命』、共著に『お手本の国」のウソ』(新潮新書)、『コロナ対策 各国リーダーたちの通信簿』(光文社新書)など。
 
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