ジャパンダイジェスト

ドイツゼクト物語 - シャンパンとの接点を探して 岩本順子

20. ケスラー・ゼクト14 ケスラーの死

Deutsche Sekt-Geschichte

1841年10月30日は、ケスラーの生涯において最も誇らしい日であった。彼はシュトゥットガルトでの王室の祝事に招かれ、ヴュルテンベルク王ヴィルヘルム1世から騎士十字勲章を与えられたほか、貴族の称号を得て「フォン・ケスラー」と名乗ることになった

人生において、これ以上を望めないほどの栄誉を受けたこの頃から、フォン・ケスラーの健康は悪化し始めた。彼は、C.G. ケスラー&カンパニーに出資者の1人として加わった、カール・ヴァイス=シェノーを後継者に任命し、自らはビジネス界から引退した。

1842年12月16日、フォン・ケスラーは息を引き取った。55歳だった。遺骸はシュトゥットガルトのホッペンラウ墓地にある、妻アウグステの墓に葬られた。C.G. ケスラー&カンパニーを継いだヴァイス家は、その後170年間にわたり、同社を運営することになる。

1850年、C.G. ケスラー&カンパニーはライプツィヒの産業見本市で「ケスラー・カビネット」というブランド名のゼクトをリリースした。複数の品種がブレンドされ、調和の取れた味わいのゼクトだったという。「ケスラー・カビネット」は、ドイツ最古のブランド名を冠したゼクトであり、約150年にわたって生産された。

1867年にパリで行われた世界博覧会で、C.G. ケスラー&カンパニーはスパークリングワイン部門で銀賞を受賞した。シャンパーニュを生産するフランスの首都でドイツのゼクトが入賞したことは、大きなニュースとなり、世界を駆け巡った。以後同社は、1873年にウィーン、1876年にフィラデルフィア、1881年にメルボルン、1892年にシカゴと、世界各地の博覧会に積極的に出展し、着実に顧客を増やしていった。

ケスラー・ゼクトがヴュルテンベルク王室の御用達となったのは、1881年のことだった。ヴュルテンベルク国女王オルガはケスラー・ゼクトの大ファンだった。ロシアの大公女で、オルガの姪に当たるヴェラも、ケスラー・ゼクトを常にセラーにキープしていた。

19世紀末になると、ケスラー・ゼクトは国外においても王室の御用達ゼクトとなり、世界各地の一流レストランのワインカルテにもオンリストされていた。

ケスラー・ゼクトは王室のほか、産業界においても愛されていた。当時の顧客リストには、フェルディナンド・グラフ・フォン・ツェッペリン伯、ゴットリープ・ダイムラー、クロード・ドルニエなど、産業界のパイオニアたちが名を連ねていた。

1892年、C.G. ケスラー&カンパニーは「ドイツ・スパークリングワイン醸造所協会」を設立した。同社は、当時のドイツのゼクト界におけるリーダー的存在だったのである。

1867年、パリ世界博覧会におけるケスラー・ゼクトのブース1867年、パリ世界博覧会におけるケスラー・ゼクトのブース

 
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岩本順子(いわもとじゅんこ) 翻訳者、ライター。ハンブルク在住。ドイツとブラジルを往復しながら、主に両国の食生活、ワイン造り、生活習慣などを取材中。著書に「おいしいワインが出来た!」(講談社文庫)、「ドイツワイン、偉大なる造り手たちの肖像」(新宿書房)他。www.junkoiwamoto.com
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