4月最後の日曜日、テンペルホーフ空港の存続をめぐるベルリン史上初の市民投票が行われました。空港の存続を求めるグループの大々的なキャンペーンもあって、大きな注目を集めましたが、結果的に空港存続を求める票は、州憲法で決められている「ベルリン市全有権者の25%」という定数に達することなく、今年10月末での閉港が決定的となりました。
今回の市民投票で興味深いのは、ベルリンの東西で結果が真二つに分かれたことです。旧西ベルリン全ての地区とミッテ地区では投票率は比較的高く、存続に賛成する人々の票が反対派を上回ったのに対し、旧東ベルリン地区にフリードリヒスハイン・クロイツベルク地区を加えた東側では軒並み投票率が低く、反対派の票の方が高かったのです。テンペルホーフ空港は、冷戦時代の1949年に「ベルリン空輸」の舞台になるなど、その歴史性から今でも思い入れを抱く人が少なくないそうですが、それはあくまで西側から見た話で、東と西とでは、人々の歴史の共有感覚も空港への関心度もまったく異なることが浮き彫りになりました。
街のいたる場所に掲げられた
「テンペルホーフ空港を救おう」のポスター
いずれにせよ、1923年にオープンし、「すべての空港の母(英国の建築家ノーマン・フォスター卿)」と呼ばれたテンペルホーフ空港は、ついにその役目を終えることになります。10月の閉鎖前には、市民のためのお別れイベントも企画されているそうです。
これから本格的に問題となるのは、市の中心部に出現する386ヘクタールという広大な土地の使い道です。ベルリン市は、敷地の大部分を緑地に変え、その周りに5000戸のアパートやオフィスビルなどを建てるプランを提示していますが、まだほとんどが白紙と言っていい段階。ナチス時代に建てられた巨大な空港本館をどのように再活用するかも含め、今後果てしない議論、コンペ、予算折衝などが繰り返されていくことでしょう。
ベルリンという未完の大都市にまたひとつ、長い道のりが待ち受けています。
現在は利用客がまばらな空港本館