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ベルリン空輸作戦終結から60年

昨年10月に惜しまれつつ閉鎖されたテンペルホーフ空港が、久々に表舞台に帰ってきました。5月12日、ベルリン空輸作戦の終結60周年を記念し、旧空港内の敷地を使って市民を対象にした祭りが行われたのです。

ベルリンの激動の歴史の中でも、この「空の架け橋」作戦はいまだに伝説的な存在であり続けています。1948年6月24日、ソ連による「ベルリン封鎖」で西ベルリンの周囲の交通網がすべて絶たれた後、ほぼ1年間にわたりアメリカのクレイ将軍指揮下の西側連合国が空の経路だけを使って220万人の西ベルリン市民のために食料や燃料、その他の生活物資を運び続けたという事実は、驚異的というほかありません。特に主要拠点となったテンペルホーフ空港では、何機もの飛行機が平行して高度差をわずか150メートルに保ちながら、数分おきに着陸するという光景が展開されました。49年5月12日の封鎖解除までに、その数は27万機にも達したと言われています。

この日はオープンイベントに先立って、空輸作戦に貢献した77人の退役軍人がベルリンのヴォーヴェライト市長とユング国防大臣から感謝の意を込めて表彰を受け、「空の架け橋記念碑」の下では、空輸作戦中に事故で亡くなったパイロットらに献花が捧げられました。

空港内の敷地を使って行われたイベントは、平日にもかかわらず大勢の市民で賑わっていました。特設ステージでは、ビッグバンドの演奏や空輸作戦に参加した元パイロットのインタビューが行われ、かつての西側連合国であるアメリカ、イギリス、フランスの名物が並んだ屋台、当時の新聞記事を展示するコーナーなどがありました。

「干しぶどうの爆撃機」
テンペルホーフ空港に帰ってきた通称「干しぶどうの爆撃機」

ハイライトは午後4時にやってきました。空輸作戦を象徴するアメリカ軍機、通称「干しぶどうの爆撃機」が元空港の上空を周遊し、小さなパラシュートの付いたチョコレート約1000個を落としていったのです。飛行機からそれを投げたのは、元アメリカ軍パイロットのゲイル・ハルフォーセンさん(88)。当時、子どもたちのためにお菓子付きのパラシュートを落とすというアイデアを最初に思いついたのはこの人で、そこからほかのパイロットにも広まったそうです。空港へ着陸する直前に主翼をわざと揺らして子どもたちに合図を送り、お菓子を落としていくアメリカ軍機の姿は、戦後の西ベルリンとアメリカの友好関係の象徴ともなりました。

このほか「C.A.R.E」と書かれた、当時を再現した救援物資も配られていました。私は残念ながらもらうことができませんでしたが、中に入っていたのは干しぶどうのパンだったそうです。

ベルリン空輸作戦終結から60年
子どもの時に空輸作戦を体験したという年配の女性が、
配られた救援物資の箱を見せてくれた

 
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中村さん中村真人(なかむらまさと) 神奈川県横須賀市出身。早稲田大学第一文学部を卒業後、2000年よりベルリン在住。現在はフリーのライター。著書に『ベルリンガイドブック』(学研プラス)など。
ブログ「ベルリン中央駅」 http://berlinhbf.com
守屋健(もりやたけし)
ドイツの自動車、ビール、そして音楽に魅せられて、2017年に渡独。現在はベルリンに居を構えるライター。健康維持のために始めたノルディックウォーキングは、今ではすっかりメインの趣味に昇格し、日々森を歩き回っている。
守屋 亜衣(もりや あい)
2010年頃からドイツ各地でアーティスト活動を開始し、2017年にベルリンへ移住。ファインアート、グラフィックデザイン、陶磁器の金継ぎなど、領域を横断しながら表現を続けている。古いぬいぐるみが大好き。
www.aimoliya.com
佐藤 駿(さとう しゅん)
ドイツの大学へ進学を夢見て移住した、ベルリン在住のアラサー。サッカーとビールが好きな一児のパパです。地元岩手県奥州市を盛り上げるために活動中。
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