1998年にICEが脱線し、101人が亡くなったエシェデ。6月3日に20年を迎え、追悼式が現地で行われました。この事故は列車が脱線して橋にぶつかり、橋が落ちたため大惨事につながったのです。追悼式には遺族や救助隊、近所の人、裁判官、ドイツ鉄道(DB)の関係者など約300人が集まり、20年前を振り返りました。
事故のあった現場
エシェデは北ドイツに位置し、ハノーファーから鈍行で30分ほど北東に行ったところ。事故現場に建てられた追悼碑には亡くなった人の名前と生年月日が記され、周辺に101本の桜の木が植えられています。被害者の会代表で、妻と娘を失ったハインリヒ・レーベンさんは「20年経ち、遠いことだと思う時もあれば、まるで昨日のことのように蘇ることもある」と悲しみを語りました。そして、安全第一を訴えるとともに、多くの人が救助に駆け付けたこの地は連帯の象徴であるとしました。
亡くなった人の名前を記した記念碑
事故にあったウド・バオホさんは「列車に乗った時、30歳だった。健康で仕事も充実し前途洋々だったのに、降りた時はこんなふうになっていた」と杖をつき、今でも左半身まひに苦しんでいます。5年前、ドイツ鉄道(DB)は初めて謝罪し、事故の責任を認めました。それによって対立していた被害者とDBの関係が、初めてほんの少し改善したといいます。
脱線は、列車の騒音を抑えるため車輪にゴムを使用していたことが原因でしたが、裁判では車輪が技術的に使用に適していたどうかだけが問われました。使用前の車両検査記録では、許容範囲以上の逸脱が認められていたにもかかわらず列車は出発しました。その点は論争にならず、車両設計に携わったエンジニア3人にそれぞれ罰金1万マルク(70万円)が課されただけでした。DBからの賠償金はドイツの法律に応じて、死者1人当たり3万マルク(200万円)でした。あまりの少なさにびっくりしますが、DBは法律に基づいた保証であり、このほかにもリハビリ代やお墓代、追悼碑訪問の交通費、年金補助など総額4000万ユーロを支出したといいます。
追悼式で司会を務めたジャーナリストのハートムート・ライヒャートさんによると、この事故によりDBの安全基準は大幅に改善したそうです。車輪は超音波検査でチェックし、異常の際の報告体制も整えました。当時、事故の情報が被害者の家族に伝わらず、その後の対応も不十分だったことも反省点です。当時の車両は中からも外からも開けにくかったのですが、現在は事故に備えて開けやすい構造にしました。
重大な列車事故は日本でもあり、人ごとではありません。事故の教訓をどう生かしていくのか。安全を最優先する姿勢が問われています。
日本で新聞記者を経て1996年よりハノーファー在住。社会学修士。ジャーナリスト、裁判所認定ドイツ語通訳・翻訳士。著書に『市民がつくった電力会社: ドイツ・シェーナウの草の根エネルギー革命』(大月書店)、共著に「お手本の国」のウソ(新潮新書) など。