4. シャンパンのライバルとなるゼクト
フランス占領時代から解放され、ライン川という大動脈を手に入れたウイーン体制下のドイツでは、統一への基盤が整いつつあった。1848年革命以後の経済は好転し、ドイツのゼクトはフランスのシャンパンと市場を競い合っていた。
ナポレオン1世が掻き回したヨーロッパは、過去に例のない大国際会議「ウイーン会議」(1814-15)によって再編成された。フランスの領土は革命前の領域に戻され、プロイセン王国はラインラント、ヴェストファーレンという先進地域などを得た。ライン川という重要な航路を手に入れた同国は、防衛の最前線、ラインフロントでフランスと対峙することになった。神聖ローマ帝国は消滅し、プロイセン、オーストリアを含む35君主国4自由都市からなる「ドイツ連邦」が形成された。
革命の再発防止と平和維持を目指したウイーン体制の時代、プロイセンの領土はハノーファー王国、ヘッセン選帝侯国によって分断されており、国内の関税障壁が悩みの種だった。そこでプロイセンは1818年に国内関税の一切を廃止、その影響は大きく、1834年には15カ国が名を連ねる「ドイツ関税同盟」が発足した。おかげでドイツの経済的統一は進み、それが後の政治的統一に繋がっていく。
1830年のフランス七月革命の影響を受け、ドイツでも農民解放が進んだが、農民や労働者の生活環境は相変わらず過酷だった。1840年代後半の農作物の不作がそれに追い打ちをかけた。ドイツ人の南米大陸移住はブラジル独立後の1820年代から徐々に増加するが、ライン地方やモーゼル地方の農民などが大挙してブラジルへ移住したのが、ちょうど1840年代のことだった。
続く1848年のフランス革命の余波で、プロイセンの首都ベルリンでも三月革命が起こった。この時、農民解放は軌道に乗り、多くの国が農村貸付銀行を設立、農民に賦課償却のための資金を供給したので、起業熱が沸き起こった。続く1850年代のドイツ経済は好景気になり、独立していた4つの鉄道網も繋がった。
ドイツのゼクト産業はこの激動の時代に産声をあげ、急成長した。醸造家で政治家でもあったセバスチャン・エングレルトの『ドイツのワイン造りとワイン取引』(1849)という著書には、ドイツは当初フランスからシャンパンを輸入していたが、自国でも生産が盛んになり、短期間に大成長を遂げたとの記述がある。エングレルトは、ゼクトの輸出は重要な収入源になると考え、英国、米国などへの輸出を奨励、ドイツのゼクトはシャンパンの強力なライバルとなっていった。
(参考文献/ Wolfgang Junglas, Rudolf Knoll „Das grosse Buch vom Sek“t )
国境の街ブライザッハにあるゼクトメーカー、ゲルダーマン社のウインドウには、ドゥーツ・ゲルダーマン時代のボトルが飾られている。ドゥーツ社と分かれ、現在はロートケプヒェン・ムム社(RMSK)に属する。(筆者撮影)