5. 海軍の資金源となるゼクト
統一を達成したドイツは、フランスの「シャンパン」には見向きもせず、「ゼクト」の生産量は増大する一方だった。帝国主義の時代が到来し、ドイツ皇帝は、ゼクトに課税し、帝国の軍事費を捻出することを思いついた。
シャンパンおよびゼクトの隆盛期だった19世紀後半、スペイン国王の継承問題でプロイセンとフランスは対立していた。エムス電報事件が直接的なきっかけとなって普仏戦争(1870-71)が勃発し、プロイセンが圧倒的な勝利を遂げると、プロイセン王国を主とする連邦国家としてのドイツ帝国(1871-1918)が誕生した。プロイセン国王はドイツ皇帝に就任、帝国は第一次世界大戦(1914-18)で敗北するまで存続した。統一ドイツでは、ライバル国フランスのシャンパンを購入する者はおらず、ゼクトが増産された。
19世紀末から第一次世界大戦に至るまで、敗戦国フランスの政治は不安定だった。しかしこの時期は、フランスにおいて産業と文化が栄えた「ベル・エポック(良き時代)」と呼ばれる華やかな時代でもあった。印象派の画家、エドゥアール・マネの遺作「フォリー・ベルジェールのバー」(1882)は、パリのナイトクラブのバーカウンターに立つ女性の姿を描いたもので、ベル・エポックのパリの様子を後世に伝えている。彼女が立つカウンターにはビールやワインのほかにシャンパンのボトルが並ぶ。
帝国主義を標榜し、植民地支配を始めた英国、米国、ロシア、 フランス、そして統一ドイツのハイソサエティが、マネの絵から想像できるように、スパークリングワインに酔いしれていた頃、ドイツ帝国は海軍の運営資金として、1902年に「スパークリングワイン税」を導入した。これはゼクト好きだったヴィルヘルム2世皇帝のアイデアだ。当時、ドイツには約180ものゼクト醸造所があり、1905年にはゼクト1100万本分の税収があった。それは当時の軍事費の約6割を占めていた。
当時のドイツのゼクトは、フランスのシャンパンより辛口で、とりわけ英国人に好まれ、コース料理の途中、ドイツの辛口ゼクトを口直しに飲む習慣があったという。
ちょうどこの時代、ブドウ畑では異変が起きていた。1863年にフランスで確認されたフィロキセラが、ヨーロッパ各地に蔓延しはじめたのである。フィロキセラとは、ブドウを根から食いつくし、枯らしてしまう小さな害虫で、北米から英国経由でフランスに運ばれて来た。1871年の段階で、フランスでは10万ヘクタール以上のブドウ畑に被害が及んでいたという。やがてフィロキセラはドイツにも深刻な被害を及ぼし始めた。1872年に創設されたガイゼンハイム果樹・ブドウ栽培研究所には、普仏戦争の賠償金も投入され、フィロキセラ対策の研究が進められていた。
「フォリー・ベルジェールのバー」をイメージした写真の後ろには絵画が見られる