11. ケスラー・ゼクト5 ケスラーの出世
1810年代初頭のクリコ社は、長期化するナポレオン戦争の影響で経営難に直面したが、マダム・クリコを筆頭に、複数のドイツ人社員が奮闘した。中でもケスラーは1810年に共同経営者に就任、マダムの片腕となった。その翌年は大彗星ヴィンテージだった。
クリコ社のドイツ人社員はケスラーとケラーマイスターのアントワーヌ・フォン・ミュラーだけではなかった。故フランソワ・クリコが抜擢したルードヴィヒ・ボーネをはじめ、カール=フリードリヒ・バーンマイヤー、ヨハン=ペーター・フォーグト、ヨーゼフ=ハインリッヒ・グレックレンら多数のドイツ人社員がおり、営業担当の多くがドイツ人だった。これはクリコ社だけの現象ではなかった。シャンパーニュ地方のドイツ人移住者は増加する一方で、外国語に堪能な彼らは重宝された。
ケスラーは当初経理担当だったが、1810年にクリコ社とフォルノーとの契約が切れると、マダムとともに新生ヴーヴ・クリコ=ポンサルダン社の共同経営者となった。入社3年後の異例の出世である。彼は23歳になったばかりだった。
マダムはケスラーのドイツ的な経営センス、明晰さ、公正さ、几帳面さ、シュヴァーベン人らしい倹約精神を高く評価していたという。やがてケスラーは、ブドウやベースワインの買い付けも一任されるようになり、ブドウ栽培からシャンパン製造方法に至るまでのすべてを学ぶことになった。
翌1811年は、今日「C/1811 F1」と呼ばれる「大彗星」が世界各地で何度も目撃された年※で、ワインの当たり年でもあった。シャンパーニュ地方も、例外的な好天に恵まれた。1811年産のシャンパンは高品質で長期熟成可能、シャンパンの新時代を切り開いた偉大なヴィンテージとなり、「彗星ヴィンテージ」と呼ばれた。そのため、多くのメゾンが、今なおエティケットに彗星のモチーフを使用している。しかし「彗星ヴィンテージ」の販売も容易ではなかった。
ケスラー同様、経営に手腕を発揮したルードヴィヒ・ボーネは、欧州販路の開拓に努めた。通常ボーネが出張し、3日に一度ケスラーに手紙で状況を報告した。手紙は馬車や船で運ばれ、時には4週間後にケスラーの元に届いた。ボーネは会社の判断を仰ぐ際、出張先で2カ月待つこともあった。移動中は風雨で馬車が壊れたり、強盗に襲われるなど、常に危険と隣り合わせだった。
ボーネはクリコ社にとって、おそらく最も大切な人材だった。もとは英国市場担当だったが、後にプロイセンとロシア市場を開拓する。会社人生のほとんどを出張先で過ごし、現地の貴重な情報を報告した。
※C/1811 F1は1811年3月末から1812年8月中旬まで約17カ月にわたり、世界各地で度々目撃された。最初に発見したのはローヌ地方のフランス人だった。
ボトルやエティケットにあしらわれているヴーヴ・クリコ・ポンサルダンのシンボルマークは、
イニシャルであるVCPの文字と錨が大彗星を象徴する星の形に囲まれている(筆者撮影)