13. ケスラー・ゼクト7 銀行業の再開
1821年、ヴーヴ・クリコ=ポンサルダン社(以下VCP社)のシャンパン生産量は年間27万本に達したが、1820年代初頭は、シャンパンビジネスに陰りが見えはじめた時期でもあった。1822年、VCP社は銀行業を再開し、危機を乗り越えようとした。
知名度の高いVCP社がランスで銀行業を再開すると、それまでパリの銀行と取引するしかなかった地元の商人たちは大歓迎した。シャンパーニュ地方における銀行の存在には、大きな意味があった。ワインやシャンパンの生産には、高額の資本投入が必要であり、生産工程も長期にわたるため、融資がなければビジネスは困難だった。モエ社(1833年以降モエ&シャンドン社)はすでに1819年にエペルネに銀行を開業し、近隣のワイン農家や醸造所、ワイン商に融資していた。
ケスラーは、 経験豊かな銀行家のサポートを得て、以後、銀行業務を担当することになった。シャンパンの製造・販売をはじめとする、かつてケスラーが担当していた業務は、1821年にVDP社の実習を開始し、やがて社員として受け入れられたドイツ人、マテウス=エドゥアルド・ヴェルラー(Matthäus Eduard Werler)が引き継いだ。ちなみに、ヴェルラーはケスラーが同社を去った後、倒産の危機に陥ったVCP社を救済し、1852年から1868年まではランス市長を務めた人物である。
銀行業を再開して1カ月後、マダム・クリコは突然、ケスラーの処遇を変更した。共同オーナーの地位はそのままにしたが、後継者候補からは外したのである。なぜマダムが急に考えを変えたのかは、いかなる文献からも伺い知ることができないという。
歴史家ナイゲンフィントは、マダムとケスラーの関係が悪化したとは考えられないと述べている。ケスラーは1819年にフランス人女性と結婚し、フランス永住を考えていたし、マダムは1822年に、自宅の近所の持ち家をケスラー夫妻に売却している。彼は、マダムはおそらく、ケスラーを後継者候補から外すことで、自らのシャンパン・メゾンが将来もずっとクリコ家の所有であり続けるようにしようと、考え直したのではないかと推測している。
銀行業務を一任されたケスラーの仕事は増える一方だった。1822年末には、ランス初の貯蓄銀行・年金基金(Spar- und Vorsorgekasse)の設立にも関わった。当時のケスラーの肩書きは「ファブリカント(Fabricant)」だったそうだが、それは、当時ケスラーが銀行業務のほかに、繊維工場を率いていたことを教えてくれている。
ランス中心街。手前は「スベの泉」(筆者撮影)