12. ケスラー・ゼクト6 マダム・クリコの戦略
1810年、ロシア帝国が大陸封鎖令を破り、英国と通商を再開すると、露仏関係は悪化した。1812年にナポレオン1世がロシアに侵攻すると、アレクサンドル1世は直ちにフランス製品の禁輸措置を取る。半年に渡るロシア戦役の後、ナポレオンは敗退した。
ロシアの勝利は、ヨーロッパ制覇の野望を抱いていたナポレオン1世にとって大打撃だった。その後ナポレオンは、1813年のライプツィヒの戦い(諸国民の戦い)でも、プロイセン、ロシア、オーストリア、スウェーデン連合軍に敗北、ドイツからも撤退した。
1814年9月、ナポレオン戦争後のヨーロッパの秩序再建および領土の分割を目的としたウィーン会議が始まったが、「会議は踊る、されど進まず」のフレーズで知られるように、各国の利害が衝突し、一向に進捗せず、日々大量のシャンパンが消費されたという。
その頃、ヴーヴ・クリコ=ポンサルダン社(以後VCP社)は、新たなビジネス戦略を練っていた。ロシアのフランス製品禁輸措置はまだ解除されていなかったが、ロシアのシャンパン需要を確信し、先手を打ったのである。VCP社はオランダ船を利用し、シャンパンをケーニヒスベルク(現カリーニングラード)まで運び、最終目的港のサンクトペテルブルクまで迅速に輸送できるようスタンバイした。ケーニヒスベルクでの待機中も、現地でシャンパンの一部を販売した。この作戦は大成功で、禁輸措置が解けるや、VCP社はロシア市場に一番乗りしたのである。このロシア・ビジネスの成功により、VCP社は最盛期を迎えた。1870年ごろまで、VCP社の輸出は、多い時で8割がロシア向けだった。
1815年のワーテルローの戦いでナポレオンが完全に敗北し、平和が訪れると、シャンパンの売れ行きはうなぎのぼりとなる。VCP社のシャンパン生産本数は、1813年の時点で3万5千本だったが、1821年には27万本に達する。1815年は、ケスラーがVCP社の共同オーナーの地位に登り詰めた年でもある。ロシア・ビジネスの功績がマダムに高く評価されたのだった。しかしケスラーは極めて慎重だった。ビジネスが、政治や戦争、経済危機に翻弄されることを、よく理解していたからである。
1820年頃、シャンパンの売れ行きが停滞し始めた。フランス経済の回復には、まだ時間がかかりそうだった。ケスラーはリスク分散のため、ドイツに支店を置くことをマダムに提案した。クリコ家も、当初営んでいた銀行業や紡績業にも力を入れようと考え始める。経営の才に長けたケスラーは、1821年の時点でマダムの後継者候補に指名されていた。
VCP社では、ガロ・ロマン時代の石切り場跡、クレイエールがカーヴとなっている