少人数の抗議行動はすでに年頭から始まってはいた。ライプツィヒで市民500人が言論・集会・報道の自由を求めて集まり、警察に蹴散らされたのは、独立社会主義の革命家ローザ・ルクセンブルクとその盟友カール・リープクネヒトが70年前に虐殺された1月15日。レーニン批判でSEDから忌避されている彼らの追悼日に、独裁政権への批判をぶつけたのだ。
大多数の市民は、5月7日の地方選挙で集計がごまかされたことから、腐敗に我慢できなくなっていた。東ベルリンで毎月7日にデモが行われ、今までSEDを支持してきた人々までが抗議集会で発言。その一方で、将来を悲観する若く優秀な就労世代が、ハンガリーからオーストリアへと不法に越境し、あるいはプラハとワルシャワの西ドイツ大使館に駆け込んで西へと脱出。東ドイツの屋台骨は今にも崩れ落ちそうだった。
左派知識人による新フォーラム設立
この西側への大脱出に異議を唱える形で誕生したのが「新フォーラム」である。発足地は東ベルリンの故ロベルト・ハーヴェマン(反体制化学者)未亡人宅。発起人は女流画家ベアベル・ボーライや女医エリカ・ドレースのほか、文学者、物理学者、音楽家、平和環境保護アクティビスト、プロテスタント教会の聖職者など30人。彼らは9月12日の宣言で「民主的な社会主義を樹立するために国を立て直そう」と呼び掛け、自分たちは「西へ逃げないし、ドイツ統一を望まないし、資本主義を拒否する」と強調した。
彼ら左派知識人が出したこのアピールは、今振り返るとかなり理想主義的で、大衆の思惑とはずいぶん違って見えてしまうが、それは彼らが権力から嫌われつつも優遇されてきた特権グループだったからだ。しかし、世論からは賞賛と庇護を受けており、当時西のメディアを通じてこの宣言が伝わると、多くの有識者が共感。10万人以上の署名を集め、各地の民主化運動で精神的な支柱になっていくのである。
月曜デモの始まり
さて、東ドイツの民主革命を代表する都市といえばライプツィヒである。同市の聖ニコライ教会では1982年9月20日からクリスティアン・フューラー牧師により、毎週月曜日に「東西の軍拡競争に反対する平和の祈り」が捧げられていた。
そして86年からは、人権擁護活動で当局から敵視されていたクリストフ・ヴォンネンベルガー牧師が平和の祈りを担当。活動は兵役拒否者の保護や環境保護などへと拡大し、数々の反体制グループが教会に集まる。祈りの後で参列者が市内を初めて行進したのは、89年9月4日。こうして月曜デモは始まった。
一方、ドレスデンでは10月3日に市民が中央駅に詰め掛け、警察と衝突する。西ドイツ行きの特別列車が同駅に一時停止していることを市民が聞きつけて、それに便乗しようとしたからだった。
乗客はプラハの西ドイツ大使館経由で西に亡命する東ドイツ人である。本稿の第37回でも触れたが、逃げ出した自国民を「国に一旦戻して出国させる」ことは東ドイツに残された最後のプライドだったのかもしれない。西ドイツ政府はそのために東の面子を立て、東ドイツを通過する特別ダイヤで亡命者の移送を実行。その結果がこれだった。
平和裏に遂行されたデモ行進
そして東ドイツ建国40周年となる10月7日。賓客のソ連ゴルバチョフ書記長から「遅れてくる者は人生によって罰せられます」(第38回参照)と警告されても、ホーネッカー国家評議会議長にはまだ現実が見えていない。ライプツィヒの月曜デモ参加者は9月25日の5000人から10月2日には2万人に増え、9日のデモはさらに膨らむと予想された。ホーネッカーは国家保安省に対し、銃弾を撃ち込んででも行進を制圧するようにとの指令を出した。
ライプツィヒが第二の天安門にならなかったのは、ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者クルト・マズーアら人望ある市民3人が当局に非暴力を訴え、一方で国家評議会のエゴン・クレンツ副議長が指令に従わない知恵を持ち合わせていたからだった。この夜の参加者は7万人。彼らは蝋燭に火を灯し、「我々こそが人民だ!(Wir sinddas Volk!)」「我々はここに残る!(Wir bleiben hier!)」と言って市内を練り歩く。西のメディアがその様子を発信した。
ホーネッカーが突然辞職したのは10月18日。長年の同僚に見限られて退陣に追い込まれたという。議長の後任には前述のエゴン・クレンツが座った。しかし、その任期は長くない。ベルリンの壁が落ちるのはもうすぐである。
23 September 2011 Nr. 886