今年はハノーファー市と広島市が姉妹都市提携を結んで40周年になり、ハノーファーではさまざまな平和に関する催しが開かれています。その一環として5月、大阪の作家であり日独平和フォーラムのメンバーである山本健治さんが、ハノーファー市庁舎にて広島で被ばくした米澤鐡志 さんの体験談を披露。実体験に基づく語りに多くの人が感銘を受けました。
米澤さんの写真を首に下げ、ドイツ語の『つるはげのテツ』を手にした山本さん
米澤さんは11歳の誕生日の前日、広島市で母親と路面電車に乗っている最中に爆心地から750メートルの地点で原爆の被害に遭いました 。路面電車の中で大人に囲まれていたため外傷はありませんでしたが、放射線障害により26日後に母親が死亡。赤ちゃんだった妹も、被ばくした母の母乳の影響で亡くなりました。米澤さん自身も生死の境をさまよいましたが、奇跡的に回復。しかし後遺症で髪が抜け、頭の皮膚がでこぼこになり、いじめられることもありました。これらの体験から、戦争は絶対に起こしてはいけないと考え、子どものころから昨年88歳で亡くなるまで、戦争と核兵器反対を訴えてきました。
被ばく者が減りつつある昨今、原爆の恐ろしさを世界の人に知ってもらいたいとの思いから、山本さんは生前の米澤さんから聞き取りを行い、体験談をまとめました。その後ハノーファー市からの補助を受け、私がドイツ語に翻訳して『つるはげのテツ』(Glatzkopf Tetsu)という題名で冊子を制作。同市は、この本をドイツ中で平和教育に利用してほしいと考えています。
ハノーファー市庁舎での講演の様子
山本さんは市庁舎での講演以外にも「青少年国際平和未来会議」に参加した世界8都市からの若者と討論。またリマーギムナジウム校で10年生130人を対象に話をしました。歴史のリヒテ教諭は「原爆投下について授業でじっくり扱うことがないので、生徒たちは初めてどういうものか理解できたと思う。とても集中していた」と感想を聞かせてくれました。
さらに、ハノーファー専科大学の学生12人が、米澤さんの体験談をもとに作品を制作。同月に市庁舎で展示会「und dann - Ausstellung zum Atombombenabwurf in Hiroshima」が開かれました。炎やがれき、焼け焦げた木、当時の街並みをモチーフとした作品は胸に迫るものがありました。
ハノーファー専科大学の学生の芸術展のオープニング
『つるはげのテツ』には、原爆投下後の炎に包まれた広島で米澤さんが何を見たのか、感じたのか詳細に書かれています。原爆についてよく知らないドイツ人にとっては、大きなショックでしょう。悲惨な場面を強調するのは良くないという人もいますが、具体的な体験を知ることで初めて理解できることがあります。ウクライナに侵攻したロシアが核兵器の使用をちらつかせるなど、核の恐怖は去っていません。山本さんは英語、ロシア語、エスペラント語、フランス語版も作り、「米澤さんの意志を引き継ぎ、これからも核兵器廃絶を訴えていく」と決意を新たにしています。
日本で新聞記者を経て1996年よりハノーファー在住。ジャーナリスト、法廷通訳士。著書に『なぜドイツではエネルギーシフトが進むのか(学芸出版社)』、共著に『コロナ対策 各国リーダーたちの通信簿(光文社新書)』、『夫婦別姓─家族と多様性の各国事情(筑摩書房)』など。