地下鉄の駅に貼られた展覧会のポスターを見かけるたびに、いかにも意思の強さを感じさせるこの人の表情が強く印象に残ります。フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判をはじめ、ナチの犯罪を司法の場に持ち込んだ検事のフリッツ・バウアー(1903-1968)。歴史記念館「テロのトポグラフィー」にて、バウアーの生涯をたどる特別展が開催されています。
バウアーはリベラルなユダヤ人の両親のもと、シュトゥットガルトに生まれました。法律の博士号を取得した後、1930年にはワイマール共和国で当時最年少の地方裁判官となります。しかし、ナチの政権獲得後、バウアーはユダヤ人であることと社会民主党員であることから迫害を受け、8カ月もの間、二つの強制収容所に収監されます。1936年に彼はデンマークに亡命し、さらに開戦後はスウェーデンへ逃れたのでした。
1963年、アンネ・フランクの追悼式典に参列したフリッツ・バウアー
戦後、彼の家族の多くが亡命先を新しい故郷に選んだのとは対照的に、バウアーはドイツに帰還します。ブラウンシュヴァイク上級裁判所の検事長を務めた後、1956年にはフランクフルトのヘッセン州検事長に就任。亡くなるまでその任にありました。
今回の展覧会の学芸員によれば、「バウアーは、検察官はまず何より人間の尊厳を守らなければならない、特に国家の暴力からも守らなければならないという見解を示し、従来のこの職のイメージに変革をもたらした」といいます。例えば、1952年のレーマー裁判では、それまで「国家への裏切り者」という見方をされることが少なくなかった1944年7月20日のヒトラー暗殺計画に携わった人々の名誉回復に努めます。
1960年のアルゼンチンでのアドルフ・アイヒマンの逮捕とその後イスラエルで行われたアイヒマン裁判につながる働きをしたこと、そして1963年からのフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判を実現させたことは、バウアーの最大の功績と呼べるでしょう。バウアーの生涯に関する多くの文書や映像が並べられたこの展覧会でも、これらの出来事に焦点が当てられていました。中には、アウシュヴィッツ裁判の際にバウアーに送られた脅迫文といったものまで……。政治や司法に元ナチがまだ多くいたアデナウアー政権下の時代、バウアーが抵抗勢力を押し切って行われたこの裁判は、戦後ドイツの重要な転換点となりました。
「テロのトポグラフィー」での特別展の様子
バウアーは無神論者でしたが、プロテスタント神学を学び、キリスト教とユダヤ教の対話を熱心に奨励したり、ショーペンハウアーを愛読していたりなど、この稀代の法律家の知られざる内面世界も紹介されていました。特別展「ナチの犯罪を裁いた検事フリッツ・バウアー」は、10月17日まで無料で公開されています。
テロのトポグラフィー:www.topographie.de