1月16日の夜、ファザーネン通りのベルリン文学館(Literaturhaus Berlin)で、作家の多和田葉子氏と詩人でエッセイストの伊藤比呂美氏による対談が開かれました。テーマは『異国で書く』というもの。
ご存知の方も多いと思いますが、1982年よりドイツ在住の多和田さんは日本語とドイツ語両方の言語で執筆活動をしています(現在はベルリン在住)。一方、伊藤さんは90年代より南カリフォルニアに在住し、同地と熊本を往復する生活を続けているそうです。ベルリン自由大学のイルメラ・日地谷=キルシュネライト教授の司会によるこの対談は、最初に2人がそれぞれの作品の一節を朗読するところから始まりました。
館内は熱気に包まれ、立ち見まででる盛況ぶりだった
多和田さんによるドイツ語の朗読はさすがに見事なもの。とはいえ、その作品はドイツ人が書くドイツ語とは視点や発想が明らかに異なるもので、来場したドイツ人の聴衆にも新鮮な驚きをもたらしていたようでした。
どちらかというと「言葉の求道者」という印象を受けた多和田さんに対して、伊藤さんの朗読は、それ自体が歌のように伸びやか。「悩める女性たちに言葉を届けたい」という伊藤さんは、ユーモアを込めて自分の詩集を「実用本」だと言い切ります。
2人の言葉に対する考え方はもちろん、創作の手法も垣間見られて大変興味深い対談だったのですが、ここでは多和田さんの話の中で印象に残ったエピソードをご紹介したいと思います。
「ある時、『ここそこ』という表現を使ったら、「多和田さん、それは『そこここ』の間違いではないですか?」と日本の編集者に指摘された。自分は無意識のうちにドイツ語の「hier und da」の発想で日本語を組み立てていたのだった。しかし、間違えることが考えるきっかけになるし、文化的なズレの中に自分が探しているものを見つけることもある。ドイツ語で話すのは、足の先から指の先まで全身の筋肉を使うので身体が疲れるが、それもまた心地良いと感じる」
海外で生活をすること。それは仕事上の都合ということもあるでしょうし、多和田さんや伊藤さんのように「任意亡命」という形もあり得るでしょう。しかしいずれにせよ、異文化とのせめぎあいを通して、複眼の視野でモノを見る・考えるチャンスなのです。海外で生活する者の1人として、大いに刺激を受けた一夜でした。
左より多和田氏、日地谷=キルシュネライト教授、伊藤氏