2月半ば、第2次世界大戦末期の東京大空襲など日本の空襲体験者がドレスデ ン、ベルリン、ハンブルクの3都市を訪れ、現地で空襲を体験した人々と交流しました。
今回ドイツを訪問したのは、1945年3月10日の東京大空襲を体験した二瓶治代さん(75)と、同年7月の鹿児島の空襲で左足を失った安野輝子さん(72) のほか、東京や大阪の空襲の遺族や研究者、弁護士ら約20人。ドレスデンでは 同年2月13日のドレスデン大空襲から67年目の追悼行事に参加し、二瓶さんは自らの戦争体験をドイツの聴衆の前で語りました。また、ドレスデン市民と一緒に「人間の鎖」にも加わったそうです。
第2次世界大戦中、多くのユダヤ人が強制輸送された
ベルリン・グルーネヴァルト駅17番線ホームで犠牲者に思いを寄せる二瓶治代さん
発起人の1人である市民グループ 「和・ピースリング」の山本唯人さんは、 今回の訪独の背景をこう語ります。「東京や大阪だけでなく、ドレスデン、ゲルニカ、重慶といったほかの空襲被災都市でも、これまでその現実はあまり知られていませんでした。冷戦期の政治事情の下では、個々の被災者の体験にまで光が当たらなかったのです。昨年2月にドレスデンで行われた日独の戦争体験者を記録した写真展がきっかけで、戦争体験から被害補償の問題まで、ともに語り合いたいという声が上がりました」
東京大空襲を体験した二瓶さんにお話を伺いました。江東区の亀戸駅近くに家族と住んでいた二瓶さんは当時8歳でしたが、その夜の出来事を克明に記憶されています。火の筒のような焼夷弾が絶え間なく落ちる真っ赤な空、人が燃えているのを目の当たりにしたこと、熱風に飛ばされ、親とはぐれたときの恐怖心、何人もの焼死体の下敷きになったために 助かったこと……。
「数時間前まで生きていた人たちが、ごみくずのように至るところに転がっていました。どこの国がやっても、どんな武器を使っても、戦争は残酷なものです」二瓶さんは江東区の東京大空襲・被災資料センターで、今も定期的に自らの体験を若い世代の人々に語っています。
「ここを訪れる小学生から、たまに『どうしたら戦争はなくなるの? こういう (被災資料センターのような)建物があればなくなるのかな?』と聞かれます。 私はそんなとき、こう答えます。『建物を造っただけでは戦争はなくならないの。こういう展示を見たり、人から話を聞いたりして、戦争が本当に嫌だと思ったらそれをほかの人に伝える。そういう人たちがいっぱい増えて、手をつなぎ、戦争を止めようという声が世界中に広まれば、そして戦争をやりたいと思っている人ができない状況を作れば、戦争はきっとなくなると思うよ』。実際に、少しずつですが(戦争を)食い止めること はできてきていますよね」
戦争の記憶が色濃く残るベルリンは、 二瓶さんの目にどう映ったのでしょう。
「激しい地上戦が行われた街を歩いて も、ユダヤ人の慰霊碑を見ても、私がまず感じたのは『子どもたちはどんなに恐い思いをしただろうか……』。本当に胸が詰まりました」
自らの体験を重ね合わせるように切々と語る二瓶さんの姿を、忘れることができません。