ライプツィヒから西へ約40km離れた都市ハレにて、昨年11月末~1月末まで「ストラグリング・シティーズ展」が開かれました。60年代と言えば、日本が戦後の復興期を乗り越えて、高度成長期として経済が一気に上り坂になったときです。そのような時代背景の中、建築界では、世界に影響を及ぼした都市計画への実験的な試みがありました。「メタボリズム」と名付けられた建築家をはじめとするグループが、1960年に東京で開催された「世界デザイン会議」を機に結成され、都市の未来像を提案したのです。
磯崎新「空中都市」の模型
「メタボリズム」とは新陳代謝という意味で、彼らは社会変化や急増する人口に合わせて有機的に成長する都市を目指しました。設立メンバーは、建築家の丹下健三の影響下にあった建築家(黒川紀章、菊竹清訓、槇文彦、大高正人)と建築評論家(川添登)、デザイナー(栄久庵憲司、粟津潔)の7人でした。
メタボリストたちによる、巨大構造物に交換可能なユニット(生活空間)を取り付けるという提案は、そのユートピア的イメージにより様々な反響をもたらしました。当時20~30代だったメンバーの挑戦的で意欲的な活動は、それまで外国ではほとんど認知されていなかった日本の現代建築が注目される重要な転換点となりました。世界デザイン会議の後、実際にメタボリズム建築の例として、東京の銀座に「中銀カプセルタワービル」(1972年、黒川紀章設計)の建設が実現しました。これは、工場で製作された交換可能なカプセル140個を積み重ねた集合住宅で、現在も使用されていますが、設備の老朽化とアスベスト(茶石綿)を含有している問題から、建て替えもしくは解体の議論がなされています。
60年代に盛り上がりを見せたメタボリズム運動はやがて、70年の大阪万博にピークを迎えます。全体の指揮を執った丹下氏をはじめ、多くのメタボリストたちが参加して、来場者6400万人を超えるという(2010年の上海万博が開催されるまで)史上最多の規模を誇りました。その後、73年のオイルショック以後は、右肩上がりの高度成長期の発想と見られ、世の中の関心は離れてしまいました。しかし50年以上が経ち、被災地での仮設建築としてその有効性が再認識されるなど、再び脚光を浴びることになりました。60年代に問題となった戦後復興や急増する人口対策に比べ、現代は地球環境問題や少子高齢化などさらに複雑な課題を抱えています。彼らのような挑戦的かつ情熱的な都市レベルのプロジェクトを非現実的だと一蹴せず、この現代にこそ重要な意味を持つものと考えることができるのではないでしょうか。
会期中に開催されたシンポジウム
国際交流基金が主催する本展は、2010から約10年掛けて、50カ国を巡回中です。
ドイツ建築家協会認定建築家。福岡県出身。東京理科大学建築学科修士課程修了後、2003年に渡欧。欧州各地の設計事務所に所属し、10年から「ミンクス・アーキテクツ」主宰。11年より日独文化交流拠点ライプツィヒ「日本の家」の共同代表。
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