ミュンヘンの西に広がるテレージエン・ヴィーゼ(Theresienwiese)は、ミュンヘンのビール祭り「オクトーバーフェスト」の会場となる場所として知られています。そしてクリスマス時期には、コンサートやショー、クリスマスマーケットなどの舞台となるイベント「Tollwood」でにぎわいました。ミュンヘン中心部から徒歩圏内という好立地で、42ヘクタールもの広大な土地が確保されていることが、大きなイベントの集客力の高さにつながっているのでしょう。
オクトーバーフェストの建物の解体が進むと、敷地の広さが感じられる
さて、この広場、もともとは1810年にバイエルン王ルードヴィヒ1世とテレーザ王妃の結婚祝いに競馬競技が開催された場所です。それを記念して翌年の同時期に同じ場所で開催された農業祭が、現在のオクトーバーフェストにつながっていきます。同祭でノスタルジー溢れる華麗な馬場競技が開催されたり農業祭が併設されたりするのは、その名残なのですね。
さて、ミュンヘンの名を世界的に知らせるお祭りの基盤をつくったルードヴィヒ1世は、さまざまな記念碑や建築物、通りをつくらせたことでも知られています。彼は幼少時から即位するまでは、あちこちに居地を移すことを余儀なくされていて、ミュンヘンに居を構えたのは即位後のことでした。当時のバイエルン王国は借金まみれ。そんななか、この王は強固な節約政策で借金を返済した後、大規模な建築事業に乗り出します。オデオン広場から伸びるミュンヘン随一の大通りルードヴィヒ通りは彼の命令で造られたものです。180年前の建設当時は草原と果樹以外に何もない場所だったため、今よりもさらに広大な印象を与えていたといわれます。ケーニヒス広場(Königsplatz)や勝利の塔(Siegestor)、グリプトテーク(Glyptothek)、オデオン広場の将軍堂(Feldherrenhalle)、州立図書館(Staatsbibliothek)、そしてピナコテーク(Pinakothek)など、ミュンヘンを代表すると言える有名な各種建築物も彼の時代のものです。また、当時ランツフートにあった大学をミュンヘンに移転してルードヴィヒ・マクシミリアン大学とし、学問を保護したことでも知られています。そして、ドイツの有名人たちの殿堂であるレーゲンスブルグ郊外のワルハラ(Walhalla)、ナポレオン支配からの解放を記念したケールハイムの解放記念館(Befreiungshalle)も、彼の指示で建築されました。
ミュンヘンの名所となっている、ルードヴィヒ1世の建築物(写真は将軍堂)
ルートヴィヒ1世が目的としたのは、これらを通じて公にミュンヘンの威容を諸外国に示すことでした。同じように建築好きな彼の孫にあたるルードヴィヒ2世が、個人的な夢を追求したのとは対照的ですね。女性にモテたためにいろいろなスキャンダルがあり、統治の後期には失政もおかしてしまう1世ですが、王妃との間に9人の子をもうけ、財政を立て直し、ミュンヘンを学問と芸術の都市につくり上げた彼の偉業は、今も街のそこかしこで見ることができるのです。
日独の自動車部品会社での営業・マーケティング部門勤務を経て、現在はフリーランスで 通訳・市場調査を行う。サイエンスマーケティング修士。夫と猫3匹と暮らし、ヨガを楽しむ。 2002年からミュンヘン近郊の小さな町ヴェルトに在住。